遅読翁ノエルのあれこれ創作書評録

後期高齢者に片足を突っ込みつつある老人です。ビンボーなため、本は買って読むことは滅多になく、もっぱら投稿サイトの作品やWeb出版の書物に目を通すことが多いです。作品は個人の好みと主観で★3以上と思われたものに限定して載せています。好きなジャンルはSF、時代小説、ミステリー、言語系エッセイ、人間学など。

こころ

愛のあるふりをして放たれる「愛の眼差し」ほど偽善的なものはない。
明治の文豪といわれるひとの小説を読んでみた。日本文学はもとより、浅学菲才で国語の教科書も読んだことのないわたしには、文豪と名の付くひとの小説なぞ縁はなかった。齢70半ばに達せんとする今日まで、ついぞ文豪たるひとの作品を手にしたことはなかったのである。
ところが、本サイトの古代ギリシャ哲人であるbarbarusさんが4度にもわたりレビューしている『こころ』という作品に興味をもった。なぜそれほどまでに明治の古典文学化した作品に拘るのか、それに興味を惹かれたのである。
誰あろう、その作者とは「夏目漱石」そのひとである。
これまで、読まず嫌いで、手に取ることはおろか、食指すら動かなかった「夏目漱石」である。名作だの文豪だのと持て囃される作家の、それも明治時代の気性を書き表したものというに至っては、とても抵抗があった。生来が歪んだ性根をもっている評者には、どうにも好きになれない作家であった。
出だしからして辛気臭い小説であった。読めば読むほどにウダウダと、紛れもない自分の文体にそっくりな辛気臭さと言い訳がましい書きぶりに辟易しながら読んだ。先般、『魔の山』という外国文学の作品を取り上げたが、あのときと違って、たったこれだけの小説を読むのに一週間以上も費やしたのである。
遅読者の遅読たる所以であるが、それにしても読めない小説であった。380ページもあって、しかも二段組の『魔の山』は正味三日で読破できたというのに、ことこの小説に限っては、本来の遅読者ぶりが存分に発揮された。
第一に辛気臭い。ペダンチックで陳腐な言い回し。しかも冗長。まるでわたしの文章を読むようではないか。ひょっとして、わたしは漱石の生まれ変わりなのではないか。と、そう思ったほど、そのグタグタぶりが苛々させられた。おそらくわたしの文を読む読者も同様に観じていよう。観察&思惟するに、漱石とは言い訳の衒学者、もしくは自虐に見せて自らに同情を集め、翻って庶民を、一般ピープルを睥睨する性質のスノビズム精神の権化なのではないか。
わたしは「お嬢さん」に深いアイロニーを視る。彼女は決してバカではない。むしろ、知らぬふりをして、夫を、つまり「先生」をバカにしているのだ。
もちろん、口に出して言うわけではない。そして心にも感じていない。しかし、その心のどこか奥底で、彼女は夫に惨めなものを感じて、その惨めさを味わいなさいと言っている。その惨めさの正体はKにあると彼女は見抜いている。彼女はKが自分を好いていると知っていた。もちろん、「私」も自分を好いてくれているのを感じていた。
だが、どちらが先に「宣言」するかは知らなかった。
結果的に「私」が母親に告白し所望したのだが、そのいわば恋の鍔迫り合いそのものに興味はなかった。早い話がどちらでもよかったのである。彼女の愛したのは、二人の男ではなく、母だった。母の望むことなら、何でも受け入れられた。父亡き後の彼女には、男は要らなかった。男は父以外にいなかったのである。
彼女は独り相撲をする夫の胸中にKの姿を視、その死が原因しているのを知っていた。知ってはいたが、真実は知らなかった。ただ女の直感で、夫の苦しみがKにあることに気付いていた。ただ一度きり、一緒に墓参りに行ったときの、あの夫の、いや、Kの友人としての「私」を見たとき以来、彼女は確信していた。
夫には疚しさがあるのではないか。自分に隠しているなにか重大なウソを打ち明けられないでいるのではないか。そして夫は、わたしを愛してはいないのではないか。愛していると無理やり思い込もうとしているのではないか。
その証拠に、あまりにも自分をなおざりにし、心から構ってくれようとしたことは一度もない。遠慮がちで、腫れ物に触るようで、真綿で首を絞めるようにわたしを遠巻きにして、愛のない眼差しを送ってくる。
そんな視線には耐えられない。愛のあるふりをして放たれる「愛の眼差し」ほど偽善的なものはない。むしろ、夫はKへの愛慕の念に日々、もだえ苦しんでいたのではないか。妻のわたしではなく友人K、というより、Kという心の愛人に許しを乞うていたのではないか。
許しを請うべきは、わたしであるのに、あのひとはわたしがなにも知らないとして、あたかも後任としての「私」を寄越したのではないだろうか。愛せなかった罪滅ぼしに、代わりを寄越したのではなかったか。独り身になって、頼る者のいなくなったわたしの後生を託すために……。