遅読翁ノエルのあれこれ創作書評録

後期高齢者に片足を突っ込みつつある老人です。ビンボーなため、本は買って読むことは滅多になく、もっぱら投稿サイトの作品やWeb出版の書物に目を通すことが多いです。作品は個人の好みと主観で★3以上と思われたものに限定して載せています。好きなジャンルはSF、時代小説、ミステリー、言語系エッセイ、人間学など。

本当は怖い京ことば

「京ことば」は、『複雑かつ被支配的な階層社会を生き抜く言語技術』を洗練させたものである。

 

常々著者に私淑するファンの一員であると公言する身として、これは応募せずばなるまいと応募してみはしたのだが、まさか本当に当たるとは思っていなかった。むしろ、当たらないのを見越したうえで、oldmanさんに願いを託したのだったが、果たしてoldmanさんのほうはどうだったのだろうか。

なにはともあれ、当たらずとも遠からず(なんのこっちゃ)拙評を書くと宣言していた以上、ここはやはり書かずばなるまい。

――と、意気込んで、書こうとしたものの、よくよく考えてみれば、その宣言はトム・スコット=フィリップスのhttps://www.honzuki.jp/book/304708/review/271902/ 『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』と絡めたうえでの書評というカタチで公表する――と約してのものだった。

家内からも軽度の認知症と酷評されるほど物忘れと筆不精が酷いので、長らく放置していたのだが、そこはご勘弁いただくとして、まずはこの本がなにをコンセプトとして書かれているのかを措定したうえで、そのありようを捉えてみたい。

そもそも言語とはいったい、なんなのだろうか――。

もしそれが一般に考えられているようにひととひととのコミュニケーション(意思疎通)のために生み出されたものだとしたら、当然、そこには話し手としての自分、そして聞き手としての相手がいなければならない。つまりはコミュニケーションが成立するうえでの最小単位は【我】と【汝】すなわち【自】と【他】の存在であり、それがなければ会話そのものが成立せず、話者のみ存在するならば、単なる独り言に過ぎないものとなる。

こうした事情から、最小単位としての我と汝が対話するうえにおいての心理状況こそが言語の基底をなし、その上においてはじめて意思の疎通は成り立つといえる。

しかしながら、言葉は単に発されるだけではなく、発されるその前に、いわばプレ言語としてヒトの心内に存在し、その意味において発語されたものが、はじめて言語としうる存在となるのである。相手あっての独り言も、その類いとなろう。

ま、こんな書き方をしたからといって、本気で論じているわけではないが、少なくとも言語が言語であり、コミュニケーションのツールであるためには、それ相応の内心語が前提としてあらねばならないのである。

著者は、本書の冒頭、リップサービスひとつをとっても、「その舞台が『京』だとなると、話はまったく違ってくる」として、つぎのようにいう。

「京民性」とでも呼べばいいのだろうか。まさにオンリーワンの人々が住んでいる「空間」が「京」というところである、と。つまりは、京都村というある意味、閉ざされた空間で営まれ、培われてきた特異な言語生理による言葉の発出原理。それには、ツークッションもスリークッションもおかれた婉曲語法がある。

彼は、本書を書くに当たって、京ことばに二種類があるとして『本書の使い方』につぎのように記す。

わたしは、京都人を「京都ジン」と表記し、そのジン種が用いるオモテ向きの言語を「京ことば」と呼んでいるが、その中身である話者の思いを「内心語」と呼んで区別している。番号つきの大見出しの表題が表向きのことば、それに続く中見出しの表題が裏の意味を含んだ京都ジンの内心語である、と。

つまりは、オモテとウラの言葉を同時に比較対照できるようにしてくれているのだ。

この「内心語」こそは、彼のいうオンリーワン存在としての「京民」が京都村コミュニティのために生み出した伝統的言語戦略の根幹であり、それに先立つものとしての初期的言語形態であるといっていい。それを彼は京都ジンの言語生理と捉え、「京ことば」そして「京都ジン」を懇切丁寧に解説していく。たまたま評者よりさきに本書の書評を開陳したโพลาริส星さん(https://www.honzuki.jp/book/304194/review/273414/ 『本当は怖い京ことば』参照)によれば、「言葉の奥の内面側の世界にまでサラリと掘り下げ」て書かれてあり、「対人スキルという意味でも就活中の若い人や漫才師さん芸人さんなんかにもオススメ」の一冊になるという。確かにそういう部分があるのは大いに認めるにしても、その空間にあるのはやはり人と人が系統発生的にではなく、個と個としての一対一の関係性のなかで遭遇する異文化との対峙において、個を個としてあらしめるか、それとも汝として我を一体化させるかという、その一点において不可欠な「言語戦略の要諦」を説いたもの。それが本書であるといっていいだろう。

話がズレた――。いいたいことは本書の値踏みにあるのではない。言語はなんのために生まれたのか、ということ。そしてトム・スコット=フィリップスの見立てを文字っていうなら、「なぜ京都ジンだけが京ことばを話せるのか」そして「京コミュニケーションから探る京ことばの本質とはどのようなものなのか」という問いに答えようとした……。それが、著者のこれまでに著した諸作における最終目標であり、長年にわたって種々の言語資料を収集かつ渉猟してなったこの本こそは、その一大研究成果であると言って過言ではないのではないだろうか。

京という一種、閉ざされた言語空間において、京ことばを個体発生的かつ語用論的に読み解く。それこそが京独特の言語生理、すなわち「言語の社会的遺伝子」を研究する者に課せられた役務といえるだろう。

最後になったが、約束どおり、トム・スコット=フィリップスの論との絡みで例えるならば、著者のいう言語の社会的遺伝子は、つぎのような解釈になる。

京都ジンの社会的言語戦略が進化したのは、京都村のような階層的社会では、集団が大規模になると、その生活が非常に政治的なものになるからにほかならない。そうした世界では、他者の心を読み、可能なかぎり操作誘導し、懐柔もしくは韜晦する能力が非常に重要な適応形質となる。

そして、さらに蛇足を付け加えるならば、

京民流意図明示コミュニケーション、すなわち「京ことば」は複雑かつ被支配的な階層社会を生き抜く言語技術を高度に洗練したものであり、発信者は受信者の心を操作し、受信者は発信者の心を読もうとする。それに対して、歴史上経験したさまざまな推測が想定している機能(性、政府、政治、計画など)はすべて、彼らの用いる言語コミュニケーションの言語生理的機能が関係しているということになるのである。

 

本書評は『本当は怖い京ことば』の感想、レビュー(noelさんの書評)【本が好き!】 (honzuki.jp)から転載したものです。