遅読翁ノエルのあれこれ創作書評録

後期高齢者に片足を突っ込みつつある老人です。ビンボーなため、本は買って読むことは滅多になく、もっぱら投稿サイトの作品やWeb出版の書物に目を通すことが多いです。作品は個人の好みと主観で★3以上と思われたものに限定して載せています。好きなジャンルはSF、時代小説、ミステリー、言語系エッセイ、人間学など。

『科学の伝え方』桝太一著を読む

サイエンスコミュニケーションとは、そっくりそのままわたしたちレビュアーにも当てはまるビヘイビア・アイデンティティなのだ。

 

桝太一さんといえば、テレビでよく見るアナウンサーである。

評者は「真相報道バンキシャ!」(家内が必ず観るので)という番組でお眼にかかっていたが、名前までは知らなかった。むしろ、夏目三久アナウンサーのほうが記憶に残り、この二人が一緒になるものとばかり思っていたのだが、結局は桝氏のほうは番組を去り、いまは「サイエンスコミュニケーター」となるべく同志社大学ハリス理化学研究所助教をしているという。

で、名前を知らぬまま、応募したのが、この『科学の伝え方』という本だった。運よく当たったのは当たったのだが、手にしてみると、当初の予想とはうんと離れていた。

というのも、もっと硬いイメージの「科学解説」を期待し、科学音痴の自分の蒙を拓いてみたいという目論見というか、思惑があったからである。しかし、そうした予想に反し、氏の熱い思いが込められた本書は、いわばインタビュアーとしての取材魂のようなものに憑かれた氏の、テレビの果たすべき役割と、その仲介役としての自身の在り方を開陳するものであったのである。

だが、捨てる神あれば「疲労紙あり」、もとい、「救う神あり」である。読み進むにつれ、徐々に氏の思いが伝わってきた。なぜ伝わったかと言えば、その姿勢が、あまりにもわたしたちがいま行っている「書評投稿活動」と似通っていたからである。

わたしたちがいま、このサイトで行っている行為。それこそはまさに「リタラチャーコミュニケーション」であり、氏のいうところの「科学」ならぬ「文学」ひいては「文字で著されたもの」をいかに分かりやすく伝え、それを眼にする人に「第二の読者」となってもらうかのキッカケづくりをする行為そのものだからである。

氏は、2016年にノーベ生理学・医学賞を受賞した大隅良典さんに「科学を伝えるメディアの役割」ということで、<b>「科学の本質を見る力を養うにはメディアの存在も必要になってくると思われますか――」と質問を投げかける。

大隅先生は、それに応えて。

メディアは一番きれいな部分を映像化して見せてくれますが、自然はもうちょっとひねくれていて本当はそんなに美しくないことも多くあります。今はどんな情報でも検索すればすぐに見ることができますが、子どもはそうした情報によって『もう知っているよ』と思考停止にならないかなと。そうならないためにはどうすればいいのかなと思うんです。

と答えている。

まさにわたしたち大人もそうなのではないか。メディアで伝えられた一方的な情報だけを信じて、それを知った気でいるのではないか。いつだったか、評者が「後出しジャンケンは必ずしも卑怯ではない」という意味のコメントを書いたことがあった。別に悪意があって書いたのではないが、なにか勘違いされたのだろう。わたしはブロックされてしまった。

活字に書かれたことを信じるのは、同年代の人々に限られるかもしれないが、今の時代、ネットに飛び交う情報というのは、ここでの書評も含めて、必ずしも正しいとは限らない。

美しくはなくとも、仮に卑怯に見えはしても、それがそのときの真実であり、事実なのであれば、それを弾劾すべきではない。当人は必死の思いで、それを乗り切ったのだから……。後になって、「ああしなかったのは間違いだ」というのは簡単なのだ。

 

ああ、脇道にそれ過ぎたようだ。本題に戻ることにしよう。

では、大隅先生はどう考えているのだろうか。

(メディアは)すでにわかったことだけを覚えさせるのではなく、(中略)子どもたちには知識を押し付けるのではなく、考えさせる余白をつくることが大切だと思っています。(中略)Aという意見とBという意見があったら、どちらが正しいのか議論してしまう。けれど私は、AとBを議論したら、Cが出てきた、という経験こそが議論だと思っています。相手を言い負かすのが議論ではありません。

マウント嫌い(?)な評者であっても、耳が痛い。ただ評者の場合は、エラソーなクチぶりを利かせるだけであって、害はないと信じているが……。

さて、今度は「博物館とその役割」ということで、国立科学博物館の館長への質問。「(博物館として)伝えたいことをあえて思い切り全面に出さずに間接的に伝えることに、どのような意味があるでしょうか」

篠田館長、笑顔になって答える。

表に出すと説教臭い話になってしまうんですよね(笑)。ですから展示を見てもらったあとで感じ取ってくれればいいんです。それも全員に感じ取っていただく必要はなく、わかっていただける人にだけ感じ取っていただければ。美術館とは違い、科博は家族や友人たちと教え合ったり感想を言い合ったり、結構うるさい博物館なんですよ。おとなしく行儀よく見ることをしなくていい。会話はむしろあったほうがよくて、そうした会話を通じて感じとってもらえることもあると思います。

では、科学に対する認識の差というものはあるのだろうか。

篠田館長はきっぱりと答える。

「科学は信じる信じないではありません。証拠に基づいて推測するものです」、と……。

では、最後に2013年に発表して世界の研究者に衝撃を与えた「結晶スポンジ法」を提唱した東京大学卓越教授の藤田誠さんとの対談を引用しつつ、わたしたち素人レビュアーが心すべきヒントともなることばをお読みいただくとしよう。

「科学を伝える技術」ということで、桝氏は「上手にプレゼンテーションするにあたって、何かコツがあるのでしょうか」と訊ねる。

藤田先生は答える。

「私の場合、研究のアイデアを考えてデータが出始めたころから、最後には人を感動させたいという気持ちと同時に、プレゼンしている自分の姿が見えます。そこでドヤッというためにはこうしたデータが必要だなと。そうして逆算して普段の研究に反映させるわけです。(中略)書き出しは使い古された表現ではなくて、絶対に読みたくなるような、引き込まれるものにしたいと。ですが実験結果はたいてい想定外です。(中略)ですから、うまく伝えるためには失敗したデータも必要です。また、ストーリー性のない結果の寄せ集めだと、引き込む話はできないですし、一つの作品になりません。ジグソーパズルもピースの一つ一つがないと完成しませんが、全体像がわからないとそのピースの重要性もわかりませんよね。おぼろげながらでも全体像は伝える必要があると思います。(中略)科学者をミュージシャンにたとえると、曲と詞ができたらそこで終わりにしちゃう人も多いのですが、それだともったいない。わたしは最後に自分で演奏までしたいんです

どうだろう。この本のテーマである「サイエンスコミュニケーションとはどうあるべきか」というコンセプトを「書評家とはどうあるベきか」と言い換えれば、そっくりそのままわたしたちにも必要なビヘイビア・アイデンティティであり、永遠の課題ともなると思うのだが……。

本当は怖い京ことば

「京ことば」は、『複雑かつ被支配的な階層社会を生き抜く言語技術』を洗練させたものである。

 

常々著者に私淑するファンの一員であると公言する身として、これは応募せずばなるまいと応募してみはしたのだが、まさか本当に当たるとは思っていなかった。むしろ、当たらないのを見越したうえで、oldmanさんに願いを託したのだったが、果たしてoldmanさんのほうはどうだったのだろうか。

なにはともあれ、当たらずとも遠からず(なんのこっちゃ)拙評を書くと宣言していた以上、ここはやはり書かずばなるまい。

――と、意気込んで、書こうとしたものの、よくよく考えてみれば、その宣言はトム・スコット=フィリップスのhttps://www.honzuki.jp/book/304708/review/271902/ 『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』と絡めたうえでの書評というカタチで公表する――と約してのものだった。

家内からも軽度の認知症と酷評されるほど物忘れと筆不精が酷いので、長らく放置していたのだが、そこはご勘弁いただくとして、まずはこの本がなにをコンセプトとして書かれているのかを措定したうえで、そのありようを捉えてみたい。

そもそも言語とはいったい、なんなのだろうか――。

もしそれが一般に考えられているようにひととひととのコミュニケーション(意思疎通)のために生み出されたものだとしたら、当然、そこには話し手としての自分、そして聞き手としての相手がいなければならない。つまりはコミュニケーションが成立するうえでの最小単位は【我】と【汝】すなわち【自】と【他】の存在であり、それがなければ会話そのものが成立せず、話者のみ存在するならば、単なる独り言に過ぎないものとなる。

こうした事情から、最小単位としての我と汝が対話するうえにおいての心理状況こそが言語の基底をなし、その上においてはじめて意思の疎通は成り立つといえる。

しかしながら、言葉は単に発されるだけではなく、発されるその前に、いわばプレ言語としてヒトの心内に存在し、その意味において発語されたものが、はじめて言語としうる存在となるのである。相手あっての独り言も、その類いとなろう。

ま、こんな書き方をしたからといって、本気で論じているわけではないが、少なくとも言語が言語であり、コミュニケーションのツールであるためには、それ相応の内心語が前提としてあらねばならないのである。

著者は、本書の冒頭、リップサービスひとつをとっても、「その舞台が『京』だとなると、話はまったく違ってくる」として、つぎのようにいう。

「京民性」とでも呼べばいいのだろうか。まさにオンリーワンの人々が住んでいる「空間」が「京」というところである、と。つまりは、京都村というある意味、閉ざされた空間で営まれ、培われてきた特異な言語生理による言葉の発出原理。それには、ツークッションもスリークッションもおかれた婉曲語法がある。

彼は、本書を書くに当たって、京ことばに二種類があるとして『本書の使い方』につぎのように記す。

わたしは、京都人を「京都ジン」と表記し、そのジン種が用いるオモテ向きの言語を「京ことば」と呼んでいるが、その中身である話者の思いを「内心語」と呼んで区別している。番号つきの大見出しの表題が表向きのことば、それに続く中見出しの表題が裏の意味を含んだ京都ジンの内心語である、と。

つまりは、オモテとウラの言葉を同時に比較対照できるようにしてくれているのだ。

この「内心語」こそは、彼のいうオンリーワン存在としての「京民」が京都村コミュニティのために生み出した伝統的言語戦略の根幹であり、それに先立つものとしての初期的言語形態であるといっていい。それを彼は京都ジンの言語生理と捉え、「京ことば」そして「京都ジン」を懇切丁寧に解説していく。たまたま評者よりさきに本書の書評を開陳したโพลาริส星さん(https://www.honzuki.jp/book/304194/review/273414/ 『本当は怖い京ことば』参照)によれば、「言葉の奥の内面側の世界にまでサラリと掘り下げ」て書かれてあり、「対人スキルという意味でも就活中の若い人や漫才師さん芸人さんなんかにもオススメ」の一冊になるという。確かにそういう部分があるのは大いに認めるにしても、その空間にあるのはやはり人と人が系統発生的にではなく、個と個としての一対一の関係性のなかで遭遇する異文化との対峙において、個を個としてあらしめるか、それとも汝として我を一体化させるかという、その一点において不可欠な「言語戦略の要諦」を説いたもの。それが本書であるといっていいだろう。

話がズレた――。いいたいことは本書の値踏みにあるのではない。言語はなんのために生まれたのか、ということ。そしてトム・スコット=フィリップスの見立てを文字っていうなら、「なぜ京都ジンだけが京ことばを話せるのか」そして「京コミュニケーションから探る京ことばの本質とはどのようなものなのか」という問いに答えようとした……。それが、著者のこれまでに著した諸作における最終目標であり、長年にわたって種々の言語資料を収集かつ渉猟してなったこの本こそは、その一大研究成果であると言って過言ではないのではないだろうか。

京という一種、閉ざされた言語空間において、京ことばを個体発生的かつ語用論的に読み解く。それこそが京独特の言語生理、すなわち「言語の社会的遺伝子」を研究する者に課せられた役務といえるだろう。

最後になったが、約束どおり、トム・スコット=フィリップスの論との絡みで例えるならば、著者のいう言語の社会的遺伝子は、つぎのような解釈になる。

京都ジンの社会的言語戦略が進化したのは、京都村のような階層的社会では、集団が大規模になると、その生活が非常に政治的なものになるからにほかならない。そうした世界では、他者の心を読み、可能なかぎり操作誘導し、懐柔もしくは韜晦する能力が非常に重要な適応形質となる。

そして、さらに蛇足を付け加えるならば、

京民流意図明示コミュニケーション、すなわち「京ことば」は複雑かつ被支配的な階層社会を生き抜く言語技術を高度に洗練したものであり、発信者は受信者の心を操作し、受信者は発信者の心を読もうとする。それに対して、歴史上経験したさまざまな推測が想定している機能(性、政府、政治、計画など)はすべて、彼らの用いる言語コミュニケーションの言語生理的機能が関係しているということになるのである。

 

本書評は『本当は怖い京ことば』の感想、レビュー(noelさんの書評)【本が好き!】 (honzuki.jp)から転載したものです。

チャイナタウン

失意のポランスキーを支えたジャックの優しさが、映画のなかで溶け出し、わたしを押し流していく……。
わたしが初めてジャック・ニコルソンという俳優を知ったのは、いまからおよそ45年前、その当時、恋人だった女性に誘われて行った映画館でのことだった。それまで、わたしはその俳優のことを知らなかったし、映画そのものをあまり観たことのない男だった。

というのも、しがない学習塾の講師をしていた身分で、月給そのものも少なければ風呂もないボロアパートの家賃を払えばギリギリという生活を送っていたからだった。
だから、いま思えば、その映画の切符代も、彼女が負担してくれたのだと思う。おそらく、そう……、いや、きっとそのはずだ。着た切り雀のわたしには、日々の銭湯代にも事欠く生活を続けていたのだから。

彼女と一緒に観て、それが最後となってしまった映画……。ひとに奢られて観た、その映画のタイトルは、『カッコーの巣の上で』というのだった。
それまで邦画はもとより、洋画そのものをあんなにでかでかとしたスクリーンで観たことのないわたしには、そこに躍動する役者に、いや、役者の演技に本当らしさを感じてしまった。あまりもの、自然な、自由闊達な演技に、見惚れてしまったのだった。

これが、ジャック・ニコルソンという俳優を知るわたしのファースト・コンタクトだった。役者があんなにも、生き生きと役を演じることができることに感動した。引き立て役のインディアンのチーフの演技にも魅かれたが、ジャックの比ではなかった。

そんな彼がロボトミー手術を施されたときには、いくら凡庸でアタマのユルいわたしでも、怒りを覚えた。作り物だと知っているのに腹が立ったのである。これまで、映画を見ても小説を読んでも感情移入をしたことのなかった、冷血人間のわたしが真に憤りを覚えたのである。ついでに言うと、「ロボトミー」という単語があることを、このとき初めて知ったのだった。

以来、わたしのなかでは、実際に手術を施されないまでも、視覚的に脳を侵されているのではないかと疑うときがある。各種メディアの発展した現代なら、なおさらその危険に晒されているのではないかと内心、惧れているのが、自分でもわかるのだ。

さて、そのようなわけで、わたしとジャック・ニコルソンとの出遭いはざっと半世紀ほど前に遡る。ところが、今度は、その約半世紀後に、またもやジャック・ニコルソンに出遭ってしまったのである。

それが『チャイナタウン』だった。たまたま家内が今夜のBSで、その名の「映画があるけど、観る?」というので、珍しく「観る!」と答えて偶然「観た」のだが、そこに彼が登場することは知らなかったのだ。

  ◇◇◇

映画が始まり、しばらく観ていて、どこかで見た俳優だということが朧げにシナプスを刺激した。どこかで視たという見当たりのようなものはあるのだが、名前が憶い出せない。映画を最後まで見終わっても、まだ名前が浮かばない。

そして、その翌日の朝、急に若いころの思い出とともに、そのときの記憶が蘇って初めて気づいた。いまでいう「元カノ」と行った『カッコーの巣の上で』という映画の主人公が、ほかならぬその俳優だったということに……。

その彼女はのちに、日本にとっても馴染みのある国の民衆の心を歌う歌姫となり、ついこの先年、肺がんで亡くなっていることをネットに教えられて知った。それは、わたしの中学時代からの親友の死んだ年と同じ年だった。こんな偶然があるだろうか。

あのフェイ・ダナウェイが娘を乗せて車で逃走中に、うしろから銃弾を受けて死んだことを知ったのと同じ衝撃が、わたしの心臓を刺し貫いたのだ。

あれほど愛してやまなかった、そして歌手としての成功を願ってやまなかった元カノと女優フェイ・ダナウェイの映画のなかでの死が、そこで見事シンクロしていた。名監督、否、名俳優ジャックに励まされて撮り続けたポランスキーの映像魔術によって……。

この時空間的な共時性は、いったいどんな理由でいまごろ、わたしの許に回帰してきたのだろう。初めて知った映画のインパクトと出演俳優たちの生きざまとが、わたしのなかでシンクロする。人違いで妻を惨殺され、失意の底にあったポランスキーを支えたジャックの優しさが、その映画のなかで溶け出し、わたしを押し流していく……。

ああ、あなたはなんという俳優なのだ。わたしは、思わず、45年前に彼女を置いてカルフォルニアに旅立った、自分の身勝手さを思い知ったのだった。あのときわたしに、ほんの少しでも彼ほどの優しさがあったなら……と。
 

白い恐怖

正直に言おう。イングリッド・バーグマンの美しさ、可愛さに改めて魅入られてしまった!
本評は『本が好き!』のコンセプトが読んだ本の感想発表にあることに鑑み、敢えてハヤカワ新書『白い恐怖』(『The House of Dr. Edwardes』2004年刊)を読んだカタチにして発表するものである。
ちと言い回しがややこしいが、この評は本に関してのものではなく、映画に関してのものだからである。書評に対して映評というものがあるのだとしたら、まさにそれを指す。したがって、評者がこれからつらつらと書き綴っていくことは、書物においてのそれではなく、映画を観てのそれであることを一等最初に申し上げておきたい。

さて、前置きはこのくらいにして、その映画とはどういうものかというと、何でも原作は1928年にジョン・パーマーとヒラリー・エイダン・セイント・ジョージ・ソーンダーズという二人の男性がフランシス・ピーディングというペンネームを拵えて発表した(本書解説より)ものであるらしい。
つまりは、なんといまから90年以上も前に書かれた本なのである。そして驚くなかれ、その本が映画化されたのは1945年。これまた評者が生まれる前に上映されたものなのだ。それだけでも驚きなのに、本日、鑑賞させてもらったその映画の字幕はまさに現代そのもの。心理学関係の訳語も、その当時は使われていなかったであろう学術用語が用いられていたのである。

本書の刊行もまた2004年というから、まだ読んではいないが、おそらくコンテンポラリーな訳が施されているのであろうけれど、75年以上前の映画の訳としてもハイカラ過ぎて、知ったかぶりをするのが好きな評者にはフロイトの説の引き回し方がとても分かりやすく功を奏していて、面白おかしく楽しめた。
だから、なにも、訳者にケチをつけているわけではない。源氏物語の現代語訳が諸氏によって発表されているに同じく、それもまた時代の要請に沿った親切心の表れであろうと、他の鑑賞者に代わって感謝の意を表したいくらいである。

本作(映画のほう)の原題は「Spellbound」というが、その意味は「呪文に掛けられた」とか「魅せられた」という風になるらしい。例によって、日本人独特の言語感覚を大いに発揮して案出した名邦訳で『白い巨塔』ならぬ『白い恐怖』となっている。
この手の古い映画のタイトルを見ていつも思うことだが、『暗くなるまで待って』とか『昼下がりの情事』とか、『太陽がいっぱい』とか、じつに思わせぶりな名タイトルぞろいで唸らされる。しかも、内容に即しているのである。これが本なら、いわゆる「ジャケ買い」ということになろうというもの。おそらく件の『白い巨塔』もこれを文字ったものに違いないが、謂い得て妙なタイトルである。

で、なにが言いたいかといえば、イングリッド・バーグマンがとてもチャーミングで新鮮で、可愛くしかも上手に演じていたということ。ものの本によれば、彼女の絶頂期の作品といわれるだけあって、その美貌と演技力はリアルを超えているのである。(結局、それが言いたかったんかーい!)
しかも、洒落ではないが、リアルを超えたものといえば、超現実主義つまりシュルレアリスムなのである。その意味で、サルバドール・ダリを起用したヒッチ・コックはやはり、なかなかの役者魂、いや、監督魂を有しているといえるだろう。この当時、彼をおいてほかのだれがシュールな映像を創出できたといえるだろう。
アンドレ・ブルトンだの、ルネ・マルグリットだの、ポール・エリアールだの、その他いろいろな名前が頭の中を去来するが、やはり彼をおいてほかにない。その演出もさることながら、対するグレゴリー・ペックもまたよかった。こうなると、まるで小学生が遠足に行った時の感想文のようになるが、純粋に屁理屈言いの評者でも、楽しいものには幼い時の感動受信装置が甦ってくるのである。

しかし、どうして、こうも昔の映画は分かりやすく、理解できるように作ってあるのだろう。そこには理屈はあっても屁理屈はないのである。フロイト精神分析的解釈もまた幼いココロだからこそ、容易に理解できるように作ってあるのである。
以前、『チャイナタウン』に出たジャック・ニコルソンの演技が素晴らしくて、思わず「映評」を書いたのだが、あれとまったく同様の感動を覚えた。いまでも、手の震えが止まらないくらいだ。双方とも単純なつくりだが、単純であるがゆえの複雑さ、ダイバーシティがそこにはいっぱい詰まっているのである。

ところで、なぜ評者がイングリッド・バーグマンだけでなく、グレゴリー・ペックが好きかといえば、小学校の担当先生が彼にそっくりだったからである。んなこと、関係ないじゃん! といわれそうだが、それほどに彼や彼女は評者の幼心を刺激するのである。とくに、イングリッド・バーグマンの美しさ、可愛さに改めて魅入られてしまった! ということだけは、恥ずかしながら、ここにおいて堂々と告白しておこう。
 

こころ

愛のあるふりをして放たれる「愛の眼差し」ほど偽善的なものはない。
明治の文豪といわれるひとの小説を読んでみた。日本文学はもとより、浅学菲才で国語の教科書も読んだことのないわたしには、文豪と名の付くひとの小説なぞ縁はなかった。齢70半ばに達せんとする今日まで、ついぞ文豪たるひとの作品を手にしたことはなかったのである。
ところが、本サイトの古代ギリシャ哲人であるbarbarusさんが4度にもわたりレビューしている『こころ』という作品に興味をもった。なぜそれほどまでに明治の古典文学化した作品に拘るのか、それに興味を惹かれたのである。
誰あろう、その作者とは「夏目漱石」そのひとである。
これまで、読まず嫌いで、手に取ることはおろか、食指すら動かなかった「夏目漱石」である。名作だの文豪だのと持て囃される作家の、それも明治時代の気性を書き表したものというに至っては、とても抵抗があった。生来が歪んだ性根をもっている評者には、どうにも好きになれない作家であった。
出だしからして辛気臭い小説であった。読めば読むほどにウダウダと、紛れもない自分の文体にそっくりな辛気臭さと言い訳がましい書きぶりに辟易しながら読んだ。先般、『魔の山』という外国文学の作品を取り上げたが、あのときと違って、たったこれだけの小説を読むのに一週間以上も費やしたのである。
遅読者の遅読たる所以であるが、それにしても読めない小説であった。380ページもあって、しかも二段組の『魔の山』は正味三日で読破できたというのに、ことこの小説に限っては、本来の遅読者ぶりが存分に発揮された。
第一に辛気臭い。ペダンチックで陳腐な言い回し。しかも冗長。まるでわたしの文章を読むようではないか。ひょっとして、わたしは漱石の生まれ変わりなのではないか。と、そう思ったほど、そのグタグタぶりが苛々させられた。おそらくわたしの文を読む読者も同様に観じていよう。観察&思惟するに、漱石とは言い訳の衒学者、もしくは自虐に見せて自らに同情を集め、翻って庶民を、一般ピープルを睥睨する性質のスノビズム精神の権化なのではないか。
わたしは「お嬢さん」に深いアイロニーを視る。彼女は決してバカではない。むしろ、知らぬふりをして、夫を、つまり「先生」をバカにしているのだ。
もちろん、口に出して言うわけではない。そして心にも感じていない。しかし、その心のどこか奥底で、彼女は夫に惨めなものを感じて、その惨めさを味わいなさいと言っている。その惨めさの正体はKにあると彼女は見抜いている。彼女はKが自分を好いていると知っていた。もちろん、「私」も自分を好いてくれているのを感じていた。
だが、どちらが先に「宣言」するかは知らなかった。
結果的に「私」が母親に告白し所望したのだが、そのいわば恋の鍔迫り合いそのものに興味はなかった。早い話がどちらでもよかったのである。彼女の愛したのは、二人の男ではなく、母だった。母の望むことなら、何でも受け入れられた。父亡き後の彼女には、男は要らなかった。男は父以外にいなかったのである。
彼女は独り相撲をする夫の胸中にKの姿を視、その死が原因しているのを知っていた。知ってはいたが、真実は知らなかった。ただ女の直感で、夫の苦しみがKにあることに気付いていた。ただ一度きり、一緒に墓参りに行ったときの、あの夫の、いや、Kの友人としての「私」を見たとき以来、彼女は確信していた。
夫には疚しさがあるのではないか。自分に隠しているなにか重大なウソを打ち明けられないでいるのではないか。そして夫は、わたしを愛してはいないのではないか。愛していると無理やり思い込もうとしているのではないか。
その証拠に、あまりにも自分をなおざりにし、心から構ってくれようとしたことは一度もない。遠慮がちで、腫れ物に触るようで、真綿で首を絞めるようにわたしを遠巻きにして、愛のない眼差しを送ってくる。
そんな視線には耐えられない。愛のあるふりをして放たれる「愛の眼差し」ほど偽善的なものはない。むしろ、夫はKへの愛慕の念に日々、もだえ苦しんでいたのではないか。妻のわたしではなく友人K、というより、Kという心の愛人に許しを乞うていたのではないか。
許しを請うべきは、わたしであるのに、あのひとはわたしがなにも知らないとして、あたかも後任としての「私」を寄越したのではないだろうか。愛せなかった罪滅ぼしに、代わりを寄越したのではなかったか。独り身になって、頼る者のいなくなったわたしの後生を託すために……。
 

十円札

ああ、自分も弥助にすればよかったのだ。
なんだかだいって、結局、時間を費やしただけだった。俺は思った。こんなことなら、本当に朝日ビイルを片手に弥助をたらふく口にすればよかった。
それなのに、アホが足らいで、あの札ビラを風に飛ばしてしまうなんて……。なんて、愚かな俺だろう。あの落書きをした者のように自分も寿司を食おうかと悩みつつ、風のなかで、十文字に筋の入った十円札を眺めたのがいけなかった。
粟野さんの前に威厳を保てたとしても、結局は、あの十円に俺は食われてしまったことになるのだ。五百部の印税は確かに月給日までの足らずまいを補ってくれたとはいえ、ただの一銭も使わずに風にくれてやったことを想えば、これほど口惜しいことはない。なにせ借りたカネを返せはしたところで、そのカネはもともと俺のものなのだ。
つまりは、俺は自分が貧乏だと愚痴をこぼしたことで自ら面目を失うことをしたのだし、粟野さんは粟野さんで、カネは返してもらったものの、浮かない顔の俺に感謝の意のないことに不信感を抱いたことだろう。善いことをしたのに恨まれるとは粟野さんも割に合わないに違いない。
ましてや薄青い煙をたなびかせ、ゆったりとパイプに口をつける粟野さんを横目に、当の自分はエジプトの煙草どころか、じゃらじゃらと音を立てる六十銭なにがしをポケットにするだけで安物の朝日すら買えずじまい。こんなことでは、東京へなど行けるわけもないではないか。ニッケル製の時計の蓋に映った自分の顔を眺めながら、いったん断ったカネをまた借りに行った自分が恨めしい。
なにが一体、スコットの油絵具だ。フロイライン・メルレンドルフの演奏会だ。とんだ貧乏人が、いい格好をするにもほどがある。なぜ、あのとき、つまらぬグチをあの粟野さんの前でこぼしたのだ。それほど東京へ行きたかったのか。東京へ行って、結局は恰好だけつけて画具を買って、身分に合わない音楽を聴きかじって、それで小説を書くネタにするというのか。そんなもの、誰が読む。大抵の、その志のある者がしていることを書いて、誰が喜んで読むと思う。くだらない。そんなものがゼニになるわけがない。
お前のやっていることは、ただの無駄遣いだ。なんの役にも立たない。父母兄弟にまで無心をして恥ずかしくないのか。鼻ばかり広げて、肝心の頭のなかは空っぽ。伊達に鼻の穴ばかりがでかくても、なんの足しにもならない。
卑怯者がカネを借りること自体、すでに敗北は決まっている。返す当てがないのなら、それをそっくりそのまま使わずに返すしかない。それなのに、この俺はそのカネをなくしてしまった。瀕すりゃ鈍するというが、これこそいい面の皮だ。
ああ、ほんとにあの落書き者の書いたように自分も弥助にすればよかったのだ。それなら、まだ鮨を食べられただけ救われたのに!
 

なぜヒトだけが言葉を話せるのか: コミュニケーションから探る言語の起源と進化

言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じてきたものなのだ。
生来ズホラで、何事にも億劫なものを感じるわたしにしては、とてつもなく辛気臭く、かつ長大な本を読んだ。参考文献のページだけでも35ページもあるし、本文も「訳者あとがき」を含めて308ページもある本だ。題して、そのタイトルは『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』とある。
口下手なわたしが甚く関心を持つ言語に関する書物とあれば、いかな高額書籍であろうと、身銭を切って読まざるを得ない。大枚4,000円(税別)を払って読むことにした。
――と言えば、カッコいいが、実は家内に援助してもらっての僥倖である。年金生活の懐からは、そんな大金は遣えない。やむなくおネダリしての超お買い物だった。
で、いつもの大型書店で在庫を確認して買いに行ったのが、昨年の12月6日。それから今日まで、なんと2カ月にも及ぶ期間を費やして、ようやく読み終えたのである。なにを隠そう、天下に名高い遅読の王とあっては、まことに誉れ高いスピードではないか。おそらく、この本の読者のなかでも、最高の遅読自慢ができる存在だと自負していいだろう。
では、なぜかように遅くなったのであろうか。もちろん、生来のなまけ癖が起因しているのではあるが、その中身が辛気臭いのなんのって、何度も読み返さなければ何を言いたいのかわからない言い回しの文体なのだ。
もちろん、こちらの頭のなかがユルイのは言うまでもないが、それ以上に説明が回りクドイのである。それも、AであるといえばいいものをAであるという説があるが、当方はそれがAであることを一部分は認めはするものの、その一方ではそうではないことを認めもするのである的な言い回しで、読者を翻弄し倒すのである。
だからといって、この本が面白くないというのではない。面白いのである。だが、性格的に見てせっかちなひとは読まないほうがいい。おそらくこれほど読者を選ぶ本はないに違いない。評者のようによほどのへそ曲がりでなければ、最後まで読み通すこともなく、最初の数ページで音を上げていることだろう。それほどに辛気臭く、かつ退屈でないのである。評者もなんど、途中で立ち止まり、その都度深呼吸して、再度挑んだことか。
そうしてようやく評者が辛気臭さを、いや、辛気臭さは消えていないのであるが、その辛気臭さを超えてより以上に評者の心を捉えだしたのが、5章の6「文化的索引、そして個々の言語の自然さ」というところからであった。
著者トム・スコット=フィリップスは、あのソシュールの『一般言語学講義』(評者は若い頃、これを読んで読み切れず、本棚においたままにしていたが、後年ワケあってその手の本 ex.チョムスキーウィトゲンシュタインフッサールピアジェフロイトも、なにもかもすべてを売り払ってしまった)を引き合いに出し、諸言語の構造こそが、その後の言語学の中心的な研究対象となり、今日においても主流の言語学の焦点であり続けているというが、それは、
「個々の言語が現在のようなあり方をしているのはなぜか」が現代生物学にとって中心的な問いであるのと同じことである。ダーウィンの自然選択理論はこの後者の問いに答えるものである。
として、種々の論や実験結果を披露していく。
そして、個人は覚えた人工言語を再解釈するが、その再解釈はでたらめにではなく、特定の方向性をもって体系的におこなわれ、その体系性を決定しているのはヒトの色知覚の仕組みに関係し、そうしたカタチで言語は時間の経過とともに特定の形へと引きつけられていくというのである。
これは実験による推論であるが、こうした文化的牽引は生物の進化を決定づける自然選択と似たところがあり、
最も根本的な相違は、生物進化が複製に基づくのに対して、文化進化は作り直しに基づくという点にある。
としている。
すなわち、文化項目は、生物におけるDNAとは異なり、単にコピーあるいは複製されるのではなく、各段階で新たに作り直される、または組み立てなおされるのである
という。この点は、評者も同意見である。

話はちと横道に逸れる(――というより、本題に沿っての余談)が、この辺りを読む段階(1月中旬過ぎ)になって、なぜか不思議なことに評者がよく拙評に登場させている京都在住の著者、大淵幸治の『本当は怖い 京ことば』という著作が発売され、それも併せて読むようになった。氏は、わたしの好きな作家だが、世にはあまり知られていない。
しかし、その言語に関する論評には好みも関係あろうが、へそ曲がりな評者には首肯できるところも多く、電子書籍も含め、そのほとんどの著作を読破している。ことにいま電子書籍で出版されている『ニホンゴの伝達力』にいう「言語生理」(初出1994年)という概念装置には、「よくぞ名づけたりな」 という驚嘆を感じているのだが、その概念装置を駆使してなったはずの、今回の『本当は怖い 京ことば』にもその真髄は現れていて、同じ言語の捉え方として通底するところのあるトム・スコット=フィリップスの論は、言語の成り立ちを実践編として理解するうえでとても役立つのではないかと思っている。

さて、そのようなワケで、トムの理論と大淵の理論との整合性ともいうべき言語のあり方の捉え方に親和性を見出すのである。大淵は、言語を使用する者にとって、言語に対する好悪の感情があるとして、それを言語生理と命名し、ニホンゴそして京ことばの本質を措定するうえで、実用レベルにおいて使用しうるものに限定し、京都ジン独特の「京民性」ともいうべきことば遣いに収斂させていく。いっぽう、トムのほうは「意図明示コミュニケーション」という概念装置でもって言語を論じていく……。
そこでは、ことばこそ違え、内容的には通底するものが多々見られる。大淵の「言語生理」論によるニホンゴの捉え方は1994年に、そしてその後に発表された『丁寧なほどおそろしい「京ことば」の人間関係学』においての京ことばの捉え方は2000年に発表されている。ある意味、その先見的な捉え方は、いわゆる京都本の先駆けとされるだけのことはあると思える。
たとえば、
言語は個人から個人へと伝わっていく過程で不可逆的なアトラクターのほうに引き付けられることはすでに分かっている。(中略)学習と記憶を困難にするような特徴を持つ言語はより単純化する方向に調整される可能性が高い。そのため、そういう言語は次第に学習しやすく想起しやすい形の方へと引き付けられていくはずであると思われ、実際まさにそうなっている。(5章の7「言語進化におけるコミュニケーションの役割」)
などというところなど、まさに大淵がいうところの「短略化」に同じである。すなわち
このように言語は習得可能性と表現上の有用性という異なる二つの牽引因子によって操られており、その結果、ある種の言語構造が生ずることになる。
そして、そのようにして生じたのが、大淵のいう「京民性」のもつ特異な言語構造であるといっていい。その言語構造を大淵は、社会的遺伝子による言語DNAと定義付けているが、その点は、チョムスキーなどのいう「生得的」な普遍文法、すなわち「諸言語の基底に存する共通の文法構造を指定する生得的な認知機構」の賜物であるとするのと対極の位置にある。
その点において、トムもまた言語進化は意図明示コミュニケーションの表現力を強める慣習が出現するプロセスであるとして、つぎのように言っている。
初期の慣習は一語文的であり、音声であれ、ジェスチャーであれ、話し手が伝達しようと意図する意味に最も適した媒体を用いていたであろう。こうした慣習が複数組み合わされることを通して原型言語が出現し、一部の慣習はのちに文法機能を帯びるようになったと考えられる
――と。
大淵のいう言語の社会的遺伝子は、したがって、つぎのように集約されるだろう。
霊長類の社会的知能が進化したのは、ヒトのような社会的種では、集団が大規模になると、その生活が非常に政治的なものになるからである。こうした世界では、他者の心を読み、可能ならば操作する能力が重要な適応形質となる。

さらにいうならば、
意図明示コミュニケーションは複雑な社会を生き抜く技術を洗練したものであり、発信者は受信者の心を操作し、受信者は発信者の心を読もうとする。それに対して、先述したさまざまな推測が想定している機能(性、政府、政治、計画など)はすべて、言語コミュニケーションの派生的機能である。
――ということになる。
そうして、この『意図明示コミュニケーション』という語を「京ことば」という語と入れ替えるなら、それこそはそっくりそのまま、京民が長い年月にわたって培ってきた言語コミュニケーションの具体的実践例となるのである。

最後に、言わずもがなのことを付言しておくと、トムはチョムスキーの言語生得説や言語は思考のために存在するという説などに与するのではなく、評者が位置するように「文の意味とは、話し手の意図した聞き手の心的状態の操作」のために生じたというスタンスをとっている。
その点、「京ことば」の仕様(言語生理的意味合い)は、まさにその極致であると言えるのではないだろうか。大淵の『本当は怖い 京ことば』については、別に感想文を挙げるつもりなので、ご興味のある方は、いましばらくお待ちいただきますよう。