遅読翁ノエルのあれこれ創作書評録

後期高齢者に片足を突っ込みつつある老人です。ビンボーなため、本は買って読むことは滅多になく、もっぱら投稿サイトの作品やWeb出版の書物に目を通すことが多いです。作品は個人の好みと主観で★3以上と思われたものに限定して載せています。好きなジャンルはSF、時代小説、ミステリー、言語系エッセイ、人間学など。

チャイナタウン

失意のポランスキーを支えたジャックの優しさが、映画のなかで溶け出し、わたしを押し流していく……。
わたしが初めてジャック・ニコルソンという俳優を知ったのは、いまからおよそ45年前、その当時、恋人だった女性に誘われて行った映画館でのことだった。それまで、わたしはその俳優のことを知らなかったし、映画そのものをあまり観たことのない男だった。

というのも、しがない学習塾の講師をしていた身分で、月給そのものも少なければ風呂もないボロアパートの家賃を払えばギリギリという生活を送っていたからだった。
だから、いま思えば、その映画の切符代も、彼女が負担してくれたのだと思う。おそらく、そう……、いや、きっとそのはずだ。着た切り雀のわたしには、日々の銭湯代にも事欠く生活を続けていたのだから。

彼女と一緒に観て、それが最後となってしまった映画……。ひとに奢られて観た、その映画のタイトルは、『カッコーの巣の上で』というのだった。
それまで邦画はもとより、洋画そのものをあんなにでかでかとしたスクリーンで観たことのないわたしには、そこに躍動する役者に、いや、役者の演技に本当らしさを感じてしまった。あまりもの、自然な、自由闊達な演技に、見惚れてしまったのだった。

これが、ジャック・ニコルソンという俳優を知るわたしのファースト・コンタクトだった。役者があんなにも、生き生きと役を演じることができることに感動した。引き立て役のインディアンのチーフの演技にも魅かれたが、ジャックの比ではなかった。

そんな彼がロボトミー手術を施されたときには、いくら凡庸でアタマのユルいわたしでも、怒りを覚えた。作り物だと知っているのに腹が立ったのである。これまで、映画を見ても小説を読んでも感情移入をしたことのなかった、冷血人間のわたしが真に憤りを覚えたのである。ついでに言うと、「ロボトミー」という単語があることを、このとき初めて知ったのだった。

以来、わたしのなかでは、実際に手術を施されないまでも、視覚的に脳を侵されているのではないかと疑うときがある。各種メディアの発展した現代なら、なおさらその危険に晒されているのではないかと内心、惧れているのが、自分でもわかるのだ。

さて、そのようなわけで、わたしとジャック・ニコルソンとの出遭いはざっと半世紀ほど前に遡る。ところが、今度は、その約半世紀後に、またもやジャック・ニコルソンに出遭ってしまったのである。

それが『チャイナタウン』だった。たまたま家内が今夜のBSで、その名の「映画があるけど、観る?」というので、珍しく「観る!」と答えて偶然「観た」のだが、そこに彼が登場することは知らなかったのだ。

  ◇◇◇

映画が始まり、しばらく観ていて、どこかで見た俳優だということが朧げにシナプスを刺激した。どこかで視たという見当たりのようなものはあるのだが、名前が憶い出せない。映画を最後まで見終わっても、まだ名前が浮かばない。

そして、その翌日の朝、急に若いころの思い出とともに、そのときの記憶が蘇って初めて気づいた。いまでいう「元カノ」と行った『カッコーの巣の上で』という映画の主人公が、ほかならぬその俳優だったということに……。

その彼女はのちに、日本にとっても馴染みのある国の民衆の心を歌う歌姫となり、ついこの先年、肺がんで亡くなっていることをネットに教えられて知った。それは、わたしの中学時代からの親友の死んだ年と同じ年だった。こんな偶然があるだろうか。

あのフェイ・ダナウェイが娘を乗せて車で逃走中に、うしろから銃弾を受けて死んだことを知ったのと同じ衝撃が、わたしの心臓を刺し貫いたのだ。

あれほど愛してやまなかった、そして歌手としての成功を願ってやまなかった元カノと女優フェイ・ダナウェイの映画のなかでの死が、そこで見事シンクロしていた。名監督、否、名俳優ジャックに励まされて撮り続けたポランスキーの映像魔術によって……。

この時空間的な共時性は、いったいどんな理由でいまごろ、わたしの許に回帰してきたのだろう。初めて知った映画のインパクトと出演俳優たちの生きざまとが、わたしのなかでシンクロする。人違いで妻を惨殺され、失意の底にあったポランスキーを支えたジャックの優しさが、その映画のなかで溶け出し、わたしを押し流していく……。

ああ、あなたはなんという俳優なのだ。わたしは、思わず、45年前に彼女を置いてカルフォルニアに旅立った、自分の身勝手さを思い知ったのだった。あのときわたしに、ほんの少しでも彼ほどの優しさがあったなら……と。