遅読翁ノエルのあれこれ創作書評録

後期高齢者に片足を突っ込みつつある老人です。ビンボーなため、本は買って読むことは滅多になく、もっぱら投稿サイトの作品やWeb出版の書物に目を通すことが多いです。作品は個人の好みと主観で★3以上と思われたものに限定して載せています。好きなジャンルはSF、時代小説、ミステリー、言語系エッセイ、人間学など。

『科学の伝え方』桝太一著を読む

サイエンスコミュニケーションとは、そっくりそのままわたしたちレビュアーにも当てはまるビヘイビア・アイデンティティなのだ。

 

桝太一さんといえば、テレビでよく見るアナウンサーである。

評者は「真相報道バンキシャ!」(家内が必ず観るので)という番組でお眼にかかっていたが、名前までは知らなかった。むしろ、夏目三久アナウンサーのほうが記憶に残り、この二人が一緒になるものとばかり思っていたのだが、結局は桝氏のほうは番組を去り、いまは「サイエンスコミュニケーター」となるべく同志社大学ハリス理化学研究所助教をしているという。

で、名前を知らぬまま、応募したのが、この『科学の伝え方』という本だった。運よく当たったのは当たったのだが、手にしてみると、当初の予想とはうんと離れていた。

というのも、もっと硬いイメージの「科学解説」を期待し、科学音痴の自分の蒙を拓いてみたいという目論見というか、思惑があったからである。しかし、そうした予想に反し、氏の熱い思いが込められた本書は、いわばインタビュアーとしての取材魂のようなものに憑かれた氏の、テレビの果たすべき役割と、その仲介役としての自身の在り方を開陳するものであったのである。

だが、捨てる神あれば「疲労紙あり」、もとい、「救う神あり」である。読み進むにつれ、徐々に氏の思いが伝わってきた。なぜ伝わったかと言えば、その姿勢が、あまりにもわたしたちがいま行っている「書評投稿活動」と似通っていたからである。

わたしたちがいま、このサイトで行っている行為。それこそはまさに「リタラチャーコミュニケーション」であり、氏のいうところの「科学」ならぬ「文学」ひいては「文字で著されたもの」をいかに分かりやすく伝え、それを眼にする人に「第二の読者」となってもらうかのキッカケづくりをする行為そのものだからである。

氏は、2016年にノーベ生理学・医学賞を受賞した大隅良典さんに「科学を伝えるメディアの役割」ということで、<b>「科学の本質を見る力を養うにはメディアの存在も必要になってくると思われますか――」と質問を投げかける。

大隅先生は、それに応えて。

メディアは一番きれいな部分を映像化して見せてくれますが、自然はもうちょっとひねくれていて本当はそんなに美しくないことも多くあります。今はどんな情報でも検索すればすぐに見ることができますが、子どもはそうした情報によって『もう知っているよ』と思考停止にならないかなと。そうならないためにはどうすればいいのかなと思うんです。

と答えている。

まさにわたしたち大人もそうなのではないか。メディアで伝えられた一方的な情報だけを信じて、それを知った気でいるのではないか。いつだったか、評者が「後出しジャンケンは必ずしも卑怯ではない」という意味のコメントを書いたことがあった。別に悪意があって書いたのではないが、なにか勘違いされたのだろう。わたしはブロックされてしまった。

活字に書かれたことを信じるのは、同年代の人々に限られるかもしれないが、今の時代、ネットに飛び交う情報というのは、ここでの書評も含めて、必ずしも正しいとは限らない。

美しくはなくとも、仮に卑怯に見えはしても、それがそのときの真実であり、事実なのであれば、それを弾劾すべきではない。当人は必死の思いで、それを乗り切ったのだから……。後になって、「ああしなかったのは間違いだ」というのは簡単なのだ。

 

ああ、脇道にそれ過ぎたようだ。本題に戻ることにしよう。

では、大隅先生はどう考えているのだろうか。

(メディアは)すでにわかったことだけを覚えさせるのではなく、(中略)子どもたちには知識を押し付けるのではなく、考えさせる余白をつくることが大切だと思っています。(中略)Aという意見とBという意見があったら、どちらが正しいのか議論してしまう。けれど私は、AとBを議論したら、Cが出てきた、という経験こそが議論だと思っています。相手を言い負かすのが議論ではありません。

マウント嫌い(?)な評者であっても、耳が痛い。ただ評者の場合は、エラソーなクチぶりを利かせるだけであって、害はないと信じているが……。

さて、今度は「博物館とその役割」ということで、国立科学博物館の館長への質問。「(博物館として)伝えたいことをあえて思い切り全面に出さずに間接的に伝えることに、どのような意味があるでしょうか」

篠田館長、笑顔になって答える。

表に出すと説教臭い話になってしまうんですよね(笑)。ですから展示を見てもらったあとで感じ取ってくれればいいんです。それも全員に感じ取っていただく必要はなく、わかっていただける人にだけ感じ取っていただければ。美術館とは違い、科博は家族や友人たちと教え合ったり感想を言い合ったり、結構うるさい博物館なんですよ。おとなしく行儀よく見ることをしなくていい。会話はむしろあったほうがよくて、そうした会話を通じて感じとってもらえることもあると思います。

では、科学に対する認識の差というものはあるのだろうか。

篠田館長はきっぱりと答える。

「科学は信じる信じないではありません。証拠に基づいて推測するものです」、と……。

では、最後に2013年に発表して世界の研究者に衝撃を与えた「結晶スポンジ法」を提唱した東京大学卓越教授の藤田誠さんとの対談を引用しつつ、わたしたち素人レビュアーが心すべきヒントともなることばをお読みいただくとしよう。

「科学を伝える技術」ということで、桝氏は「上手にプレゼンテーションするにあたって、何かコツがあるのでしょうか」と訊ねる。

藤田先生は答える。

「私の場合、研究のアイデアを考えてデータが出始めたころから、最後には人を感動させたいという気持ちと同時に、プレゼンしている自分の姿が見えます。そこでドヤッというためにはこうしたデータが必要だなと。そうして逆算して普段の研究に反映させるわけです。(中略)書き出しは使い古された表現ではなくて、絶対に読みたくなるような、引き込まれるものにしたいと。ですが実験結果はたいてい想定外です。(中略)ですから、うまく伝えるためには失敗したデータも必要です。また、ストーリー性のない結果の寄せ集めだと、引き込む話はできないですし、一つの作品になりません。ジグソーパズルもピースの一つ一つがないと完成しませんが、全体像がわからないとそのピースの重要性もわかりませんよね。おぼろげながらでも全体像は伝える必要があると思います。(中略)科学者をミュージシャンにたとえると、曲と詞ができたらそこで終わりにしちゃう人も多いのですが、それだともったいない。わたしは最後に自分で演奏までしたいんです

どうだろう。この本のテーマである「サイエンスコミュニケーションとはどうあるべきか」というコンセプトを「書評家とはどうあるベきか」と言い換えれば、そっくりそのままわたしたちにも必要なビヘイビア・アイデンティティであり、永遠の課題ともなると思うのだが……。